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ことばの変化 怒りについて セネカ [まえがきからの啓発]

”怒りは、セネカが執拗に描くように、心をかき乱し幸福を損ねる情念(パトス)の筆頭であり、だからこそ根絶しなければならない。”
兼利琢也訳 怒りについて 他二篇 セネカ著 岩波文庫 2008 あとがきより

人が破綻するきっかけは、金、異性、酒、そして怒りである。権力、名誉もまた、人を破壊する要因となる。
金、異性、酒にしても、いずれも目に見える即物的なもの。
しかし、怒りという要因は、目には見えない。結果が見える。感情支配そのものと考える。
権力と名誉は、目に見えないが、情報が与えられている場合に、イメージできる。
ということは、人が怒るときには、自分を制止する、あるいは、自己コントロールするトリガー(引き金、留め具)が外れたときに、生じたものとして考えていいかもしれない。

怒りの発生は、自らが心地よいという状況を、第三者的要因によって、強制的に剥奪させられる瞬間に現れる自分の形の一つなのだろう。

訳者は「(セネカのことばで)際立つのは、総督、裁判官、主人といった生殺与奪の機能を備える権力者が権力行使の際に持つべき冷静な心の態度の忠告である」と。
セネカは「怒りとは、不正を受けたことに対する報復の欲望である。そして、情念は、心身の反応ではあるものの、個人の内部に留まらない、怒りは欲望の一種である。」(91ページ)と定義している。
この「不正を受けた」の英文は、”unfairly harmed”。(公平ではない状況で危害をこうむった)とすると、機会均等、公平、公正、正義が通用せず、をきっかけとする感情ということだろうか。
セネカは、当時の暴君、皇帝カリグラの脅威を身に感じ、後の皇帝ネロを教えた教師セネカゆえの冷静な忠告を、世に残したのだろう。

「怒りはあらゆるものを、至善至誠のあり方から正反対へと変貌させる。誰であれ、ひとたび怒りに捕えられた者はいかなる義務も忘れ果てる。」(90ページ)
怒りを発露させた後の結果を審判するときに、その成果物を見たとき、「善き審判人は、許すまじきことを断罪するのであって、憎むのではない。」

一方、本書に引用されたアリストテレスは、「怒りは必要である。それなくして、戦闘は不可能である。それが心に充満し、精神と意気に火を点けるのでなければ無理だ。ただし、指揮官ではなく、兵士として用いられなければならない。」セネカは、「これは誤っている」とする(104ページ)。私見ながら、怒りのきっかけが、不公平に扱われ危害が及んだことを、兵士の動機づけとするには、少し無理があるかもしれない。

人生や歴史の中での「怒り」を考えるにしても、古今東西の歴史で、個人の問題もあるだが、例えば、アメリカの事例なら、南北戦争に関わったリンカーンの思いはいかなるものであったか。中国の三国志の登場人物、日本の関ヶ原での人物の思いを、古文書を紐解くことはできないから、表情豊かな文学書を通じて、怒りとどう結びついていたのかを考えてみたいとも思う。

三木清の「人生論ノート」で、怒りについて、考察をしている。
「神の怒り ー キリスト教の文献を見るたびにつねに考えさせられるのはこれである。なんと恐ろしい思想であろう。また、なんという深い思想であろう。神の怒りはいつ現れるのであるか、ー 正義の蹂躙された時である。」(人生論ノート 角川ソフィア文庫 58ページ)
神の怒りとは何であったか。
「神の怒りは、正義を蹂躙されたことが原因。」
書の中に、怒りのきっかけを解く。怒りを種別化する。怒りを鎮める方策も提示している。怒りは、復讐心として、永続する力に変わることを警告する。

怒りという情念をどう定義し、また、その情念をどう位置づけ、そして、どのようにコントロールするかを説明している。地位、立場によっては、怒りの発露は許されても、その結果によっては、その裁定を受けることにもなる。
現代社会での個人のありように基づいて、「怒り」を考えてみなければならないだろう。

セネカはいう「 むしろ、君は短い人生を大事にして、自分自身と他の人々のために穏やかなものにしたらどうだ。むしろ、生きている間は、自分を皆から愛される者に、(そして)立ち去るときには惜しまれる者に、したらどうか。」(262ページ)
このことばは、怒りを抑えるトリガーとなるかもしれない。

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