ことばの変化 黄帝四經 [まえがきからの啓発]
”この書は、清朝の学者の精密な考証を経ることなく、二十世紀になって忽然として本文だけが現れた。”
澤田多喜男訳註 黄帝四經 知泉書館 2006 あとがきより
この書の最初に解題が設置され、あとがきに著者のことばがある。
黄帝四經 馬王堆漢墓帛書 老子乙本巻前古佚書(こいつしょ)を翻訳し、註釈を細かく丁寧に記載し、10年余の歳月をかけて世に出されたことが紹介されている。
国内で最初の翻訳解説書だろう。内容はとても読みやすい。
書かれている内容を紹介するというような真似はできないが、
本文中で感心した点といえば、
”時期が到来しないのに華を咲かせてはいけない。自然の営みに先立って成熟すれば駄目になるし、
時期が到来しないのに華を咲かせれば果実は実らない。”(260ページ)
この本を読むと、物事には、”道”があり、これは道理であったり、正道があり、道筋という諸々の流れの筋のようなものがあって、その”道”に沿う道筋の中で、成果物としての「物」となって具体的に出現するという。何かしら、この書の本質を集約したことばのようにみえた。
その道をわきまえないと大変なことになるし、背いてもいけない。人の上に立つ人、組織の上にある職位の人であれ、中国皇帝の位置にある”黄帝”がどのような配慮、思慮で、”道”理を持って物事を進めていくかを説いた書と受け止めることができる。
庶民は庶民でも、自然のこだわりというか、天然自然の原理に沿って、”道”理を踏まえた上で、何事も過多なく着実に進めよとある、何かしら、説教と言えば、説教とも受け止めることもできるが、道理をわきまえないと、それは罰せられることもあるぞ、といましめるあたりは、”法”の概念を導入した書のようでもあり、微妙なニュアンスのことばで満ちている。
日々のことをコツコツと丁寧に進めていきたいと思う。
著者はあとがきの中で、「翻訳に誤訳はつきもの」と謙虚に語る。
本文を熟読したとしても、誤解したまま読む読者もいることも確かである。
澤田多喜男訳註 黄帝四經 知泉書館 2006 あとがきより
この書の最初に解題が設置され、あとがきに著者のことばがある。
黄帝四經 馬王堆漢墓帛書 老子乙本巻前古佚書(こいつしょ)を翻訳し、註釈を細かく丁寧に記載し、10年余の歳月をかけて世に出されたことが紹介されている。
国内で最初の翻訳解説書だろう。内容はとても読みやすい。
書かれている内容を紹介するというような真似はできないが、
本文中で感心した点といえば、
”時期が到来しないのに華を咲かせてはいけない。自然の営みに先立って成熟すれば駄目になるし、
時期が到来しないのに華を咲かせれば果実は実らない。”(260ページ)
この本を読むと、物事には、”道”があり、これは道理であったり、正道があり、道筋という諸々の流れの筋のようなものがあって、その”道”に沿う道筋の中で、成果物としての「物」となって具体的に出現するという。何かしら、この書の本質を集約したことばのようにみえた。
その道をわきまえないと大変なことになるし、背いてもいけない。人の上に立つ人、組織の上にある職位の人であれ、中国皇帝の位置にある”黄帝”がどのような配慮、思慮で、”道”理を持って物事を進めていくかを説いた書と受け止めることができる。
庶民は庶民でも、自然のこだわりというか、天然自然の原理に沿って、”道”理を踏まえた上で、何事も過多なく着実に進めよとある、何かしら、説教と言えば、説教とも受け止めることもできるが、道理をわきまえないと、それは罰せられることもあるぞ、といましめるあたりは、”法”の概念を導入した書のようでもあり、微妙なニュアンスのことばで満ちている。
日々のことをコツコツと丁寧に進めていきたいと思う。
著者はあとがきの中で、「翻訳に誤訳はつきもの」と謙虚に語る。
本文を熟読したとしても、誤解したまま読む読者もいることも確かである。
ことばの変化 孟子 [まえがきからの啓発]
”読むとは、自己を読むことである。”
加賀栄治 孟子 人と思想 清水書院 1980 はじめにより
古典を開く中で、自分自身が気に入ったフレーズなどがあれば、それを気にとめる。
今の自分がどんなことに関心を寄せているのか、
その本を手にして理由は、それがどこにあるのかを知らせるシグナルのようなものかもしれない。
それゆえに、著者が書かれたことばには、自分という内面を照らし、呼応するものがあるよというメッセージが込められたような気がした。
論語、大学、中庸、孟子といえば、中国古典の四書五経という、四書に当たるものとなる。
孟子の入門書を開いて、孟子の人物も把握する中で、
うっかりというか、気を引いたものがあった。
「孟子開巻第一章 梁惠王章句上」の一節である。
日本語訳でのやりとりは、
「ご老体、はるばる千里の道をも遠しとせずしてやって来たからには、さぞやわが国を利する妙策をおもちでしょうね」
「王さま、どうして利を第一に考えられるのですか。仁義こそが大事ですぞ。」
(50−51ページ)
ついつい、王さまでなくとも、利益、利権などお金や権力にかかることが優先するのが通説かもしれないけれども、古典になる人のことばというのは、すごいものがあるんだなあと、このやりとりには内心がっかりもし、驚き、感心する。
企業でも、社長との面談となれば、それはそれ、わかっているでしょう、が先にくる。
逆に、名刺交換だけだぞ、と念を押されることもある。
仁義を先にされると、なんじゃ、金や利権じゃないんかい、となり、
二度と会えない可能性があると、誰でも考えそうなこと。
いやいや、この本に引用されている「史記」の著者 司馬遷でも、このくだりにくると、
ためいき、いや、「いつも書物をおいて慨嘆せずにはおれない」(51ページ)と、ある。
感じるところが一緒の面があって、少しうれしかった。
しかし、これが「自己を読む」ことなのか?とも。
加賀栄治 孟子 人と思想 清水書院 1980 はじめにより
古典を開く中で、自分自身が気に入ったフレーズなどがあれば、それを気にとめる。
今の自分がどんなことに関心を寄せているのか、
その本を手にして理由は、それがどこにあるのかを知らせるシグナルのようなものかもしれない。
それゆえに、著者が書かれたことばには、自分という内面を照らし、呼応するものがあるよというメッセージが込められたような気がした。
論語、大学、中庸、孟子といえば、中国古典の四書五経という、四書に当たるものとなる。
孟子の入門書を開いて、孟子の人物も把握する中で、
うっかりというか、気を引いたものがあった。
「孟子開巻第一章 梁惠王章句上」の一節である。
日本語訳でのやりとりは、
「ご老体、はるばる千里の道をも遠しとせずしてやって来たからには、さぞやわが国を利する妙策をおもちでしょうね」
「王さま、どうして利を第一に考えられるのですか。仁義こそが大事ですぞ。」
(50−51ページ)
ついつい、王さまでなくとも、利益、利権などお金や権力にかかることが優先するのが通説かもしれないけれども、古典になる人のことばというのは、すごいものがあるんだなあと、このやりとりには内心がっかりもし、驚き、感心する。
企業でも、社長との面談となれば、それはそれ、わかっているでしょう、が先にくる。
逆に、名刺交換だけだぞ、と念を押されることもある。
仁義を先にされると、なんじゃ、金や利権じゃないんかい、となり、
二度と会えない可能性があると、誰でも考えそうなこと。
いやいや、この本に引用されている「史記」の著者 司馬遷でも、このくだりにくると、
ためいき、いや、「いつも書物をおいて慨嘆せずにはおれない」(51ページ)と、ある。
感じるところが一緒の面があって、少しうれしかった。
しかし、これが「自己を読む」ことなのか?とも。
ことばの変化 大学・中庸 [まえがきからの啓発]
”けれども、何のためによい成績を取り、めざす学校に入り、希望の職業に就くのか、と
さらにその先の目標を考えるとどうでしょう。
学びは学校の中のものでなく生涯にわたるものです。
「何のために学ぶのか」という問いは、長い時間幅をとって考えていくと、
「何のために生きるのか」という問いに近づいてきます。”
矢羽野隆雄 大学・中庸 ビギナーズクラッシクス中国の古典 角川ソフィア文庫 2016
はじめにより
設問は「我々が学ぶのは一体何のためでしょうか。」という問いに答える文を拾い上げた。
納得してしまう点は、「その先の目標を考える」ことが抜け落ちてしまう点でもあるし、
このことは、引いては、「何のために生きているのか」という根本の問いかけに
自分が気がついていないのかもしれない。そのこと自身に気づく。
古典を手にするのは、自分探しのためであるのかもしれないし、
自分の目標を設定するための指針としてなのかもしれない。
しかし、答えはまだない。
「大学 意を誠にするとは ー 伝の第六章」の日本文での説明で、
「善い行いができず悪いことをしてしまうのは、
往々にして「何が善か、何が悪か」をわきまえていないのではなく、
善いと知りながらできず、悪いと分かっていながら
してしまうのではないでしょうか。」(77ページ)とあることばは、
何かにつけて考えさせられる。
また、本文の「中庸」の説明で、
「素して行う ー 今いる場所で生きる(第十四章)
君子は其の位に素して行い、其の外を願わず。
(本文の訳:君子はいま自分が身を置いている立場・境遇に応じて(なすべきことを)行い、
その外(の境遇・立場)を願うことはない。)(190−191ページ)」
これだけ、人生を迷い迷いすると、自分を君子とは思わないが、悪いことは別とし、
偶然にせよ、自分で選んだにしても、他から与えられたにせよ、その経緯にかかわらず、
今いる、その立場で、なすべきことを行う、とする心構えにしなさい。
このことばを受け止めたのは、短い時間の中でもありがたく響くものだ。
「真理は常に簡単なものであり、身近なところにあると信ずる。」
宇野哲人 大学 講談社学術文庫 1983 はじめにより
別の「大学」の著者によることばとなるが、ハッと気付かされるものがある。
さらにその先の目標を考えるとどうでしょう。
学びは学校の中のものでなく生涯にわたるものです。
「何のために学ぶのか」という問いは、長い時間幅をとって考えていくと、
「何のために生きるのか」という問いに近づいてきます。”
矢羽野隆雄 大学・中庸 ビギナーズクラッシクス中国の古典 角川ソフィア文庫 2016
はじめにより
設問は「我々が学ぶのは一体何のためでしょうか。」という問いに答える文を拾い上げた。
納得してしまう点は、「その先の目標を考える」ことが抜け落ちてしまう点でもあるし、
このことは、引いては、「何のために生きているのか」という根本の問いかけに
自分が気がついていないのかもしれない。そのこと自身に気づく。
古典を手にするのは、自分探しのためであるのかもしれないし、
自分の目標を設定するための指針としてなのかもしれない。
しかし、答えはまだない。
「大学 意を誠にするとは ー 伝の第六章」の日本文での説明で、
「善い行いができず悪いことをしてしまうのは、
往々にして「何が善か、何が悪か」をわきまえていないのではなく、
善いと知りながらできず、悪いと分かっていながら
してしまうのではないでしょうか。」(77ページ)とあることばは、
何かにつけて考えさせられる。
また、本文の「中庸」の説明で、
「素して行う ー 今いる場所で生きる(第十四章)
君子は其の位に素して行い、其の外を願わず。
(本文の訳:君子はいま自分が身を置いている立場・境遇に応じて(なすべきことを)行い、
その外(の境遇・立場)を願うことはない。)(190−191ページ)」
これだけ、人生を迷い迷いすると、自分を君子とは思わないが、悪いことは別とし、
偶然にせよ、自分で選んだにしても、他から与えられたにせよ、その経緯にかかわらず、
今いる、その立場で、なすべきことを行う、とする心構えにしなさい。
このことばを受け止めたのは、短い時間の中でもありがたく響くものだ。
「真理は常に簡単なものであり、身近なところにあると信ずる。」
宇野哲人 大学 講談社学術文庫 1983 はじめにより
別の「大学」の著者によることばとなるが、ハッと気付かされるものがある。
ことばの変化 論語入門 [まえがきからの啓発]
”『論語』がいずこにおいても色あせない大古典として、長らく読み継がれてきたのは、単に教訓を記した無味乾燥な書物ではなく、読む者の心を揺り動かす迫力と面白さに富むためだと思われる。
『論語』の魅力、面白さは、その中心をなす孔子という人物の面白さ、魅力に由来する。”
井波律子 論語入門 岩波新書1366 2012 序から
一つ二つの語句や言い伝えのようなことばに出会うことはあっても、なかなか『論語』の概要がわかるまで読み通したことはなかった。通読するという機会はありえないとも思っていた。
その中で、古典の中身も紹介しながら、孔子という人物像を切り出そうという試みに、
とても興味が湧いたので、この書を手に取ってみた。
読み進める中で、ほっこりしたのは、次のことばであった。
”曾子(そうし)は言った。「先生(孔子)の道は、忠恕(ちゅうじょ)(自分に対する誠実さ、
他者に対する思いやり)で貫かれている。」ということだよ。”(里仁第四)
井波律子 論語入門 岩波新書1366 2012 74ページより 漢字にルビあり。
これを読んだときの理解が、
「忠」ということばが、自分に対する誠実さを示し、ということは、いわば、自然体の自分、
あるがままの姿、というものを大切にして、
「恕(じょ)」ということばが、他者に対する思いやり、ということは、自分以外のものに対して、
愛情とは言わないにしても、思いやりを持って接することが、
人として、また、孔子という先生の立場としての道、すなわち、基本的なルールとして、
これを一貫したものとしているという解説である、と理解し、
孔子の弟子の人たちにもそう理解され、このことが論語全体にも貫かれ、
また、その時代(中国の春秋時代、紀元前550年ごろ)を生き抜いた方と受け止めた。
はて、その生き方が、自分にもできるかなあ、と少し時間を取ってしまった。
この後には、さらに孔子の人物像が描かれているので、それを少しずつ読み進めてみよう。
『論語』の魅力、面白さは、その中心をなす孔子という人物の面白さ、魅力に由来する。”
井波律子 論語入門 岩波新書1366 2012 序から
一つ二つの語句や言い伝えのようなことばに出会うことはあっても、なかなか『論語』の概要がわかるまで読み通したことはなかった。通読するという機会はありえないとも思っていた。
その中で、古典の中身も紹介しながら、孔子という人物像を切り出そうという試みに、
とても興味が湧いたので、この書を手に取ってみた。
読み進める中で、ほっこりしたのは、次のことばであった。
”曾子(そうし)は言った。「先生(孔子)の道は、忠恕(ちゅうじょ)(自分に対する誠実さ、
他者に対する思いやり)で貫かれている。」ということだよ。”(里仁第四)
井波律子 論語入門 岩波新書1366 2012 74ページより 漢字にルビあり。
これを読んだときの理解が、
「忠」ということばが、自分に対する誠実さを示し、ということは、いわば、自然体の自分、
あるがままの姿、というものを大切にして、
「恕(じょ)」ということばが、他者に対する思いやり、ということは、自分以外のものに対して、
愛情とは言わないにしても、思いやりを持って接することが、
人として、また、孔子という先生の立場としての道、すなわち、基本的なルールとして、
これを一貫したものとしているという解説である、と理解し、
孔子の弟子の人たちにもそう理解され、このことが論語全体にも貫かれ、
また、その時代(中国の春秋時代、紀元前550年ごろ)を生き抜いた方と受け止めた。
はて、その生き方が、自分にもできるかなあ、と少し時間を取ってしまった。
この後には、さらに孔子の人物像が描かれているので、それを少しずつ読み進めてみよう。