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ことばの変化 詩経 [まえがきからの啓発]

”古代における本草学の知識は呪術的効力による部分が大きかったと考えられ、
現代我々が知る所の知識をそのまま解釈に取り入れるべきではないのである。”
石川忠久著、福本郁子編 新書漢文体系15 詩経 明治書院 2002 はじめにより

詩経には、草木などを取り入れた文言が多い。
きび、あわ、かづら、ももなどの名前ならば、イメージが浮かぶが、こうさい(あさざ)、けんじ(はこべ菜)、はん(白よもぎ)などは、さっぱりで専門の書によって、辿るしかないようである。
これらの草木が、詩経が成立した紀元前4世紀の時代に、民俗学的な知識以外にも、本草学という知識を持ち、どのような植物をどのような形で、どういう背景で食されていたか、あるいは、利用されていたかを背景に持つ必要があるようだ。

漢方薬はその後継を受けた知識によるのかもしれない。
今日、スイセンをニラと間違えて食べたら、毒を食したことと同じという事件もある。
キキョウの根は、水にさらしてしたのち、食材として利用される(韓国のトラジ)という。

その中で、ことばの効能に触れる詩がある。
節南山之什(小雅) 雨無正(うぶせい)から抜粋
”哀しいものよ口下手は。舌より(言葉を一言でも)出せば、上手に言えないため禍を受け)この身は憂い(の中に沈む)。結構なことよ口上手は。巧言は水が流れるよう(によどみなく)、その自分の身を安楽の境地に居させることができる。”(154ページ:日本語訳)

”一説によると秦に領土を削られた周がいよいよ衰え滅びようしていることを極限した表現である”(155ページ)という詩の一説である。
状況は、「国破れて山河あり 城春にして草木深し(杜甫 春望から)」にあって、人智のなせる業を取り入れたような内容に驚くばかりである。

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ことばの変化 黄帝四經 [まえがきからの啓発]

”この書は、清朝の学者の精密な考証を経ることなく、二十世紀になって忽然として本文だけが現れた。”
澤田多喜男訳註 黄帝四經 知泉書館 2006 あとがきより

この書の最初に解題が設置され、あとがきに著者のことばがある。
黄帝四經 馬王堆漢墓帛書 老子乙本巻前古佚書(こいつしょ)を翻訳し、註釈を細かく丁寧に記載し、10年余の歳月をかけて世に出されたことが紹介されている。
国内で最初の翻訳解説書だろう。内容はとても読みやすい。

書かれている内容を紹介するというような真似はできないが、
本文中で感心した点といえば、
”時期が到来しないのに華を咲かせてはいけない。自然の営みに先立って成熟すれば駄目になるし、
時期が到来しないのに華を咲かせれば果実は実らない。”(260ページ)

この本を読むと、物事には、”道”があり、これは道理であったり、正道があり、道筋という諸々の流れの筋のようなものがあって、その”道”に沿う道筋の中で、成果物としての「物」となって具体的に出現するという。何かしら、この書の本質を集約したことばのようにみえた。
その道をわきまえないと大変なことになるし、背いてもいけない。人の上に立つ人、組織の上にある職位の人であれ、中国皇帝の位置にある”黄帝”がどのような配慮、思慮で、”道”理を持って物事を進めていくかを説いた書と受け止めることができる。

庶民は庶民でも、自然のこだわりというか、天然自然の原理に沿って、”道”理を踏まえた上で、何事も過多なく着実に進めよとある、何かしら、説教と言えば、説教とも受け止めることもできるが、道理をわきまえないと、それは罰せられることもあるぞ、といましめるあたりは、”法”の概念を導入した書のようでもあり、微妙なニュアンスのことばで満ちている。
日々のことをコツコツと丁寧に進めていきたいと思う。

著者はあとがきの中で、「翻訳に誤訳はつきもの」と謙虚に語る。
本文を熟読したとしても、誤解したまま読む読者もいることも確かである。

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ことばの変化 孟子 [まえがきからの啓発]

”読むとは、自己を読むことである。”
加賀栄治 孟子 人と思想  清水書院 1980 はじめにより

古典を開く中で、自分自身が気に入ったフレーズなどがあれば、それを気にとめる。
今の自分がどんなことに関心を寄せているのか、
その本を手にして理由は、それがどこにあるのかを知らせるシグナルのようなものかもしれない。

それゆえに、著者が書かれたことばには、自分という内面を照らし、呼応するものがあるよというメッセージが込められたような気がした。

論語、大学、中庸、孟子といえば、中国古典の四書五経という、四書に当たるものとなる。

孟子の入門書を開いて、孟子の人物も把握する中で、
うっかりというか、気を引いたものがあった。
「孟子開巻第一章 梁惠王章句上」の一節である。

日本語訳でのやりとりは、
「ご老体、はるばる千里の道をも遠しとせずしてやって来たからには、さぞやわが国を利する妙策をおもちでしょうね」
「王さま、どうして利を第一に考えられるのですか。仁義こそが大事ですぞ。」
(50−51ページ)

ついつい、王さまでなくとも、利益、利権などお金や権力にかかることが優先するのが通説かもしれないけれども、古典になる人のことばというのは、すごいものがあるんだなあと、このやりとりには内心がっかりもし、驚き、感心する。

企業でも、社長との面談となれば、それはそれ、わかっているでしょう、が先にくる。
逆に、名刺交換だけだぞ、と念を押されることもある。
仁義を先にされると、なんじゃ、金や利権じゃないんかい、となり、
二度と会えない可能性があると、誰でも考えそうなこと。

いやいや、この本に引用されている「史記」の著者 司馬遷でも、このくだりにくると、
ためいき、いや、「いつも書物をおいて慨嘆せずにはおれない」(51ページ)と、ある。
感じるところが一緒の面があって、少しうれしかった。

しかし、これが「自己を読む」ことなのか?とも。

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ことばの変化 大学・中庸 [まえがきからの啓発]

”けれども、何のためによい成績を取り、めざす学校に入り、希望の職業に就くのか、と
さらにその先の目標を考えるとどうでしょう。
学びは学校の中のものでなく生涯にわたるものです。
「何のために学ぶのか」という問いは、長い時間幅をとって考えていくと、
「何のために生きるのか」という問いに近づいてきます。”
矢羽野隆雄 大学・中庸 ビギナーズクラッシクス中国の古典 角川ソフィア文庫 2016
はじめにより

設問は「我々が学ぶのは一体何のためでしょうか。」という問いに答える文を拾い上げた。
納得してしまう点は、「その先の目標を考える」ことが抜け落ちてしまう点でもあるし、
このことは、引いては、「何のために生きているのか」という根本の問いかけに
自分が気がついていないのかもしれない。そのこと自身に気づく。

古典を手にするのは、自分探しのためであるのかもしれないし、
自分の目標を設定するための指針としてなのかもしれない。
しかし、答えはまだない。

「大学 意を誠にするとは ー 伝の第六章」の日本文での説明で、
「善い行いができず悪いことをしてしまうのは、
往々にして「何が善か、何が悪か」をわきまえていないのではなく、
善いと知りながらできず、悪いと分かっていながら
してしまうのではないでしょうか。」(77ページ)とあることばは、
何かにつけて考えさせられる。

また、本文の「中庸」の説明で、
「素して行う ー 今いる場所で生きる(第十四章)
君子は其の位に素して行い、其の外を願わず。
(本文の訳:君子はいま自分が身を置いている立場・境遇に応じて(なすべきことを)行い、
その外(の境遇・立場)を願うことはない。)(190−191ページ)」

これだけ、人生を迷い迷いすると、自分を君子とは思わないが、悪いことは別とし、
偶然にせよ、自分で選んだにしても、他から与えられたにせよ、その経緯にかかわらず、
今いる、その立場で、なすべきことを行う、とする心構えにしなさい。
このことばを受け止めたのは、短い時間の中でもありがたく響くものだ。

「真理は常に簡単なものであり、身近なところにあると信ずる。」
宇野哲人 大学 講談社学術文庫 1983 はじめにより

別の「大学」の著者によることばとなるが、ハッと気付かされるものがある。
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ことばの変化 論語入門 [まえがきからの啓発]

”『論語』がいずこにおいても色あせない大古典として、長らく読み継がれてきたのは、単に教訓を記した無味乾燥な書物ではなく、読む者の心を揺り動かす迫力と面白さに富むためだと思われる。
『論語』の魅力、面白さは、その中心をなす孔子という人物の面白さ、魅力に由来する。”
井波律子 論語入門 岩波新書1366 2012 序から

一つ二つの語句や言い伝えのようなことばに出会うことはあっても、なかなか『論語』の概要がわかるまで読み通したことはなかった。通読するという機会はありえないとも思っていた。
その中で、古典の中身も紹介しながら、孔子という人物像を切り出そうという試みに、
とても興味が湧いたので、この書を手に取ってみた。

読み進める中で、ほっこりしたのは、次のことばであった。
”曾子(そうし)は言った。「先生(孔子)の道は、忠恕(ちゅうじょ)(自分に対する誠実さ、
他者に対する思いやり)で貫かれている。」ということだよ。”(里仁第四)
井波律子 論語入門 岩波新書1366 2012  74ページより 漢字にルビあり。

これを読んだときの理解が、
「忠」ということばが、自分に対する誠実さを示し、ということは、いわば、自然体の自分、
あるがままの姿、というものを大切にして、
「恕(じょ)」ということばが、他者に対する思いやり、ということは、自分以外のものに対して、
愛情とは言わないにしても、思いやりを持って接することが、
人として、また、孔子という先生の立場としての道、すなわち、基本的なルールとして、
これを一貫したものとしているという解説である、と理解し、
孔子の弟子の人たちにもそう理解され、このことが論語全体にも貫かれ、
また、その時代(中国の春秋時代、紀元前550年ごろ)を生き抜いた方と受け止めた。

はて、その生き方が、自分にもできるかなあ、と少し時間を取ってしまった。
この後には、さらに孔子の人物像が描かれているので、それを少しずつ読み進めてみよう。

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ことばの変化 SF短編読後106 [まえがきからの啓発]

星新一 表題「ひとにぎりの未来」 新潮文庫 1980  
取り上げた短編 「お待ちください」。
このSFショートショート、題名通り。すごいなあと感心する。
引用する文中からのことばは、ここではないけど。

読んだ感想といえば、
待ってる方も、待ってるのはいいかもしれないけど、
そのまま待ってて、それでいいのかと思うし、
待たせる方も、そのまま待たせていていいのか。と思う。

本人たちは、そんなに時間がかかっているとも思っていないのかも。
十分に吟味して、いろんなことを考えて、議論を重ね、
結論が出るまで、時間をかけているということなんだろうね。
となると、待っているとか、待たせてるということも忘れるかも。

待つとか、待ってて忘れてしまう代表的な事柄は、当時のことばとか、地震。
例えばの話、
時間が1年、2年前ならば、それほど、ことば自体は大きく変わらないかもしれない。

でも、100年後、200年後の日本語はどんな言語になっているのか。
予測してみて、そのことばで、語りかけてほしいと思う。
短い期間なら、地震ということでも、注意はする気持ちはたぶん持続する。

逆に、時間を遡ってみたら? およそでたどってみる。
2024年の100年前は、1924年。
 関東大震災1923年9月1日の翌年。
 大正後期の12年だな。ラジオの音声があるか、読み上げ原稿が残ってるかも。
 日本語も変わったところあるかな?
2024年の200年前は、1824年。江戸時代の文政年間だね。
 1830年に京都で地震があった。
 1854年は、安政東海地震と安政南海地震だ。
 古文書があるかもしれないだろうから、
 それを読み解いてはどうかと。
300年前には、関東で大地震が起きている。1703年の宝永地震だね。
その当時の記録するべきだろう大きな事件内容が
どう記録されているかを知りたいと思ったのですが。読めるかなあ。

ショートショートを前提にしたら、1000年後、2000年後も視野に入れていいかも。
チャットGPTに問いかけてみたい内容かもしれません。
内容ですか? 「お待ちください」かも。
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ことばの変化 哲学書 人生から [まえがきからの啓発]

”人間に与えられた寿命は決して長くはない。
私たちは寿命を浪費しているというのが事実である。人生は十分に長いのである。”
草柳大蔵 セネカ わが死生観 三笠書房  1988 腰帯表紙裏面のお知らせ
(本文 人生の短さについて 24ページ)

この本を本屋で手にしてパラパラとめくる中で、ブックカバー表紙裏に書かれていたことばが目に入った。
どこのページに、どのような経緯で、この文が書かれているというだろうと探したものだった。

今もそうだろうが、生きるための指針というか、核となる指標がほしいと思う。
常に同じとは言わない。根底となるものはないのかと、自分の主張を曖昧にし、
他を頼りにして、迷っていた中、触れたことばだったと思う。
この本を手にすると、自分で短くしていたのだと、改めて気付かされる。

時間だけではない、手元に必要なときに、お金がないものである。

”節約の心がなければ、どんな多額の富も充分と言うことがない。
虚飾を遠ざけ、物事は見せかけによらず、実際の効用を計って判断する習慣を身に付けよ。”
草柳大蔵 セネカ わが死生観 三笠書房 1988 序にかえて から
(本文 心の平静について 169ページ)

虚飾を近づけ、見せかけを見た。
警告することば通りの内容でやり過ごしたのかもしれない。
本物を見極める知識技量はあるか。自分は何を知っているというのか。
人のことばを素直に聞くことができたのか。その人物は信用できる人だったのか。
その時、自分はなにをしたかったというのだろうか。

怪しげな電話やメールは日々あるが、自分に核となるものがなければ、うかうかと応じてしまう危うさを感じる。迷いました、で通用するとは思わない。
自分の真の姿を見つけるとき。「それって、本当の君の姿なのか」と。

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ことばの変化 津波 [まえがきからの啓発]

”私が読者にとくに伝えたいことは、「避難すれば助かる」という事実である。
そのためには、まず津波に関する知識の絶対量を増やすことが先決である。”
河田惠昭 津波災害 岩波新書1286 2010  はじめに から
河田惠昭 津波被害 増補版 岩波新書1708 2018

この新書は、2010年に初版が出て、その3ヶ月後に東日本大震災に遭遇し、2018年に増補版が出版された。 初版の「はじめに」あるのが、上記に引用したことばである。
増補版では、津波の知識を述べた第1章から第4章に、「第5章 東日本大震災の巨大津波と被害」、「第6章 南海トラフで予想される巨大津波と被害」の章が追補され、被災された自治体の支援を務めた経験を踏まえて、津波のメカニズムなどが書かれている。

本文を読み返す中で決定的だったのは、「逃げる」ことがキーワードになっていると受け止めた。
逃げるためには、自分が住んでいる場所の特性を把握し、事前に把握している、海とは反対方向の高台を目指して、逃げることを主張していた。

車での移動が時速5キロメートルという、歩行者が歩く速度で移動するのと同じという数字(176ページ)も、逃げる手段を考えさせる。しかも、歩行者が避難場所まで歩いた距離は平均438メートルだったというから、あまり遠い距離とも受け止めにくかった。
場所にもよるだろうが、さっさと歩いて逃げた方が得策ということだろうか。

著者は、多くの情報に接しているためか、「逃げない高齢者」との関わりについても、多くの提言もしている。逃げないことで被災されたデータを得ているためでもあるのだろう。

個人的な経験となるが、熊野古道を歩き、海南市に汐見峠(海抜33m)という場所があった。そこは、津波から避難した住民の場所として紹介されていた。これ以外にも、和歌山県には、それぞれ場所で言い伝えが残されている。
住んでいる地域の特性を事前に把握しておくことが、著者の意図するところだろうと思う。

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ことばの変化 地震 [まえがきからの啓発]

”日本は世界有数の地震国であるが、過去千数百年に及ぶ文字記録が残されており、
この間に起きた地震の年月日や被害を知ることができる。”
寒川旭 地震の日本史 中公新書1922 2007 増補版2011 はじめに から

この新書を手にしたのは、腰帯のメッセージが鮮烈だった。
「平安時代に起きた東北巨大地震の18年後には、南海大地震が起きている!」とある。
赤書きの数字を見て、えっ、ホント!? どこに書いてあるのかな?と思いつつ。
非常時の持ち出し品も準備できていないからなあ、とも。

また、「縄文時代から現代まで、地中の痕跡や古文書などを駆使しながら、地震で綴る日本の歴史」と記載されていた。
それは、自分にも何か地震について、わかることがあるかなと自分に期待した。

2011年の増補版にあたり、「増補版のための補遺 東日本大震災のあとで」という項目が加えられており、その当時と直近の地震の怖さを思い起こしつつ、かつ、私たちの先祖のご苦労をも噛み締めながら、拝読させていただいた。

末尾には、「九世紀の地震活動は、(略)将来に向けての教訓を得ることができる重要な時代」と同時に「日本列島が地殻変動で形成されたことを改めて実感した」と著者は述懐されており、そのことばをすぐに飲み込むことができなかった点で、改めて精読を要すると反省した。

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ことばの変化 世界と日本 [まえがきからの啓発]

寺島実郎の著書「二十世紀と格闘した先人たち」選書版へのあとがきの中で、
副題にあった”人生を衝き動かすもの”の文中から、
”自分の人生の意味を問い詰めざるを得ないような壁のようなものに直面した時、何が彼らを力づけたのか。一つは使命感の再確認である。結局、「自分は何をするために生きているのか」という設問に向き合い、時代の中での自分自身のテーマの照準を絞ることによって、何かをなす人生への歩みだしたといえよう。もう一つは、出会いであり、人間関係である。”
寺島実郎 二十世紀と格闘した先人たち 新潮文庫 2015 384ページ

著者の二十世紀に生きた先人の人生を辿り、そして、今を生きる”我々”に向けて、カッコ内に込められたメッセージがとても新鮮に映る。
そして、自分がなすべきことをきちんと頭に置いて、テーマの遂行を着実に進んでいるんだなあ、と受け止めることができた。

自然発生的に、じゃあ、自分は?という問いになるだろう。それは無謀というもの。
答えというか、設問に対する回答はきちんとは出せていない。
それは、振り返るのには、まだ早いからだと、虚栄を張って、言い訳をするしかない。
現実を見ろ。と言われてしまうけど。

著者は述べる。
” 今、我々が向き合わねばならない課題は正に21世紀の世界潮流の中での日本のかたちであり、役割なのである。”
寺島実郎 能力のレッスン263 1994シンドロームを超えて 世界2024年5月 岩波書店 93ページ

そんなことばが、身近にあった。
明日への活力としたいことばだと思う。
めげないで。

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